華道というと、きちんとした和室で、先生がいて、決まった角度で花をいける。そんなイメージがある。ちょっと緊張するよね。

でも、そこで止まるのはもったいない。花はもっと近くていい。

もっと気軽でいい。たぶん、本当に。

でも、草月流を知ると、そのイメージが少しほどける。草月流には、いつでも、どこでも、誰にでも、どんな素材でも、という自由な精神がある。花だけではなく、枝、葉、石、金属、紙、時には身近なものまで表現の材料になる。え、そこまでいいの、と思う。

少しびっくりする。けれど、うれしいびっくりだ。

自由って、急に窓が開く感じ。すうっとする。

少し風が入る。そんな感じ。

この自由さは、ただ好き勝手にするという意味ではないと思う。むしろ、自分が何を見て、何を面白いと感じたのかを、ちゃんと形にする自由だ。自由って、案外まじめなんだよね。

たとえば、道で見かけた曲がった枝。普通なら通り過ぎる。でも草月流の目で見ると、その曲がり方が急にかっこよく見えるかもしれない。花屋で主役にならない葉っぱも、角度を変えたらすごく強い線になる。そういう発見、かなり楽しい。

草月流の魅力は、華道を特別な場所から日常へ連れてきてくれるところにある。和室がなくてもいい。立派な花器がなくてもいい。小さな机、玄関、窓辺、キッチンの片隅。そこに一本の線を立てるだけで、空間が少し変わる。

もちろん、自由だからこそ難しさもある。決まりが少ないと、逆に迷う。どこまで足すのか、どこで止めるのか。これでいいのかな、変じゃないかな。そうやって何度も見直す時間がある。独り言も増える。うーん、この枝、強すぎるかも、みたいに。

でも、その迷いも作品の一部。そう思うと少し楽だ。

完璧じゃなくていい。そこが好き。

でも、その迷いこそが楽しいのだと思う。花をいけることは、正解を当てる作業ではない。自分の感じ方を、少しずつ外に出す作業。だから完成した作品には、その日の気分がにじむ。元気な日、静かな日、少し疲れている日。花って、意外と正直だ。

現代の暮らしでは、効率のいいものがたくさんある。きれいな画像も、整った部屋も、すぐに見られる。でも、自分の手で枝を切って、角度を変えて、あれこれ迷う時間は、少し不便で、そこがいい。急がなくていいんだよね。

不便さにも、ちゃんと居場所がある。そう思うと少し安心する。

便利じゃない時間、けっこう大切。忘れがちだけど。

手を動かす時間、ちゃんと残したい。

草月流は、華道を遠い文化にしない。今ここにある素材で、今の自分がいける。それでいい、と言ってくれる感じがある。花をいけることは、部屋を飾るだけではなく、自分の感覚を信じる練習なのかもしれない。